みんなのじこせきにん

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若いうちの苦労は勝手でも苦行

ツイッターに「苦行」のことを書いて、

それは一つのテーマだな、とおもった。

格好つけるわけではないけど、

自分にプレッシャーをかけるということとか、楽をしないということとか、

全然ストイックな性格ではないし、惰情の極みなんだけど、

まあなんか、自分がつらいとか嫌だとかいう気持ちを無視して、

やる"べき"とか、"ソッチ"のほうがいい、とかいう、楽っていう(たのしいではなくてね)、のを、選択シの観点に含めないことはおおい。とおもうんだよね。

 

がばーっと休みをとったから、それで夢みたいなもんだった、テント泊3泊4日の山行をしたら、

初日に既に死ぬかと思って、そんで寒くて悲しくて、重たーい荷物を背負って、あと何日も、今よりも標高を上げて歩けるわけ無いよ、

もう下ろうか、とそういう気持ちになりながら眠って、眠りながら、

ああ、これも苦行なんだな、死ぬかもしれない、冗談抜きで滑落、遭難死するかもしれない、

そういった意味での苦行なんだな、と思ったら、しっくりきた。

分かりやすく言うと、「休暇」として旅行をしているわけではなくて、

「冒険」であったり、「挑戦」という意味での縦走をしている、というふうに思って、だから辛く危険なんだ、リスクがあるんだ、と思ったら、納得がいった。

 

結果的には、初日の道迷いからの斜面を無理に登ろうとして滑落死の危険を感じたのほど、の危険は、ほとんど無いんだけど、

破風山の下りとか、国師ヶ岳の上りの雪道とか、金峰山頂前の雪山に入り込んだ時のような、

そんな新たな世界に突入したような危機感はあったのだけど、

慎重にすればどうってこと無くて、

初日の無理な斜面は、土もフカフカで踏ん張りどころも無く、

背負ってる20キロくらいの荷物と、腹の20キロくらいの肉とともに、ぐずぐずと滑落するのかなという予感はかなり明確で、

その感触は、何週間もたった今でも、

俺はあの時に滑落死していて、その走馬灯の中を生きているのかな、

という妄想を起こすくらいには恐怖でした。

いや、これは真面目に。

 

そういうのはおいておいても、そういうのもふくめて、

楽しい、という感覚とは違う、むしろ真逆な、足は当然、肩も腰も、ストックを持ってる腕だって、

かなり辛い、苦しい状態にあるというのに、せっかくの休暇に何をやっているんだろうという、

そういう感覚がね、

ああ

苦行をこなしているんだな、と思ったら、すっぽりとハマったんですよね。

ずっと、日の出ている時間、5時とかから活動して、テント片付けて、

予定では、コースタイムでは15時くらいには工程終わるのに、

16時半くらいまでゆっくりゆっくりあるいて、ようやくテント場について、

たった3日だけどそうやってきて。

どうにかせんと歩いて、歩かなきゃ、しょうがない、わけわかんないとこにとどまってもしょうがない、

という義務感みたいなもので歩き続けて、

で、ああ、これは苦行なんだな、と、そういうふうに思ったんですよね。

山を登るのは、もしかしたらスポーツってそういうものなのかもしれないけど、

楽しくないんですよね。

よいけしき、とか、たっせいかん、とかそういうのは無くはないけど、

やっぱちょっと違っていて、大半は地味な辛い苦しい、重い荷物を背負って歩いている、

という工程なんですよね。

 

っていう苦行をせねば生きていけないのは、

罪の意識みたいなかんじなのか、

はたまた、実は単なるどエムなのか(違うと思うんだけどなー)、

そういうのはわかんないけど、

我慢することが昔は得意で、今はもう、好きにやってるから我慢なんて久しくしてないから、できるわけもなくて、

そういう意味では苦行なんて耐えられないのに、説明できない感覚で、苦行の中を生きてる。

そういう気持ちにもなってるけど、実は、

実は、

あのとき、3週間くらい前だけど、あの斜面を、背負ってる糞重たいザックと、腹の20キロの肉と共に、フカフカの斜面をころがっていて、

その走馬灯だけで、今も生きてるフリをしてて、苦行だとかなんだとか調子のってるんじゃないかな、とかそういうふうにも思う、