140文字制限に便乗して、短文賢いというかんじ。
しょうもないことをだらだら書く必要はないけど、
そうでないことをきちんとした文量で書くのは、ふつうのことなので、
例えばblogosで8ページあるからって、「長い!」という批判はナンセンスだと思う。
3行でまとめよ、というけれども、
よく思うけど、”ノルウェイの森”を3行でまとめることはできない。
小説家は、1文字で欠けていたらその小説は違うものとなる、というくらいに文字=言葉に重きを置いているだろうし、
同様に、どこで区切ってもその小説をなし得るという覚悟(保坂和志)で言葉を書いている。ということを知れ。
他方、(誰か忘れてしまったけど)詩人が、なにかの物事を表すのに、それそのものを示すのに最適な語が一つだけある、と言っていたというのを読んだことがあって、
それは今更ながら、ウィトゲンシュタインの言う”意味”への挑戦なんだろうと思う。
それは(まっとうな)小説家の責務と考えていいのだと思う。
だからつまり、ノルウェイの森の意味は、ノルウェイの森の文章を全て書くことでしか表すことができないのだろうと、いうこと。
別のいい方をすると、
「あなたを愛している」を「月がきれいですね」に言い換えることは文学ではなくて、
「あなたを愛している」を「月がきれいですね」に言い換えざるをえないことを書くのが文学であるということ。
だから、文学(というか芸術?)は言葉によって、言葉以上の本質を”だけ”扱っているということ。
世界は”言葉”から立ち上がるのか、はたまたウィトゲンシュタインの言う”意味”から立ち上がるのか、どうなんだ、ということそのものを
twitterの、というか信奉者の、短文主義は否定している、ように思えてならないので、
きらい。