特段、熱心なリスナーではなかったとしても、
2001年から2005年度に大学の軽音楽サークルに所属して、オルタナティブなコピーバンドをしていると、ナンバーガールというのは、どうしたって避けては通れない。
まず、思うに、今のちょっとひねくれたロックアンドポップアンドロックな、例えばゲスやカナブーンみたいなサウンドの基礎を作ったのはナンバーガール=向井だと思う。
そしてかつ、そのサウンドの傾向を、どうしても中尾が好きだったとは思えなく、そして吉村や吉野やゲンドウがよしとしていたとは思えない。
それでも、その、ナンバーガールのポップ性と、上記よしとしないはずのメンツがよしとするエモ的なものらが同居している不自然さこそがナンバーガールであることを否定できないというのは、田淵久子=ブッチャーズや、中尾=スパイラルコード、Sloth Love ChunksでありCrypt City であるという姿なのだろう。
つまり、何がいいたいのかというと、
パンクやロックはけしてイロモノではなく、
グラムや一部の先鋭にイロモノなものが現れるが、
じゃがたらのようにイロモノを除去することによって純粋なパンクやファンクが現れるように、
衝動とファッションの分別は明確なのである。
良しと悪しではなく。
そういう意味で、ナンバーガールにはイロが、その音楽や詩にも確実にあるし、それと同じものが、今のロックアンドポップアンドロックにも含まれている。し、それこそが向井の功績かつ功罪なのではないかと思う。
じゃあ、omoide in my headや、tatooありや、I do'nt knowにそのイロがなければよいかというと、それはない。
確かに、中尾のベースにそのイロはない。どこまでもヘビーでエモーショナルなパンクスの鋭いベースラインである。それがよさと思う。
田淵久子のギターがフレーズはどうあれどす黒いノイズを響かせて、それは、その良さはナンバーガールの功罪や功績の中にはなくて、ライクソニックユースやもっとモッズなパンクの中にあると思える。
それと向井のイロのバランスなのだと思う。
ブッチャーズのライブを見に行くときに、スリーピースを見たかったなと思っていたことがある。
そう思いながらライブをみて、田淵久子のギターにぶっ飛ばされたことがある。
スパイラルコードの初東京ライブに、中尾が現れたのに震えたことは忘れられない。
それがナンバーガールなのだ。
アヒトはどこへ行った。
この流れでいうと、ボラ、ではなく、BEYONDSなのだし、向井とともにzazenだということなのだけど、
同じく、それがナンバーガールなのである。
全員生きているくせに、音楽の先端に全員がいるくせに、
だからこそ? 再結成が考えにくいバンドである。
希有、でしょう。
衝動とファッションの共存。