みんなのじこせきにん

みんながみんなでみんなのじこせきにん

死ぬとか

仕事で疲れて土曜日の夕方に、うとうとしていたら、

寝入りばなの錯乱で、”死”への恐怖が強烈に襲ってきて、ああ、気が狂うのはこういうときなんだな、とおもった。

 

死、そのものというよりも、死への過程というか、死が起こしうる全ての想像できることが恐ろしくなったというか、

つまり、

 

例えば、時間があって、長さは主体的なものなんだけど、

年取るにつれて短くなるけど、

仮に死への瞬間、漸次式的に時間が延びていったらどうなるだろうとか、

さらに、同時に、等倍的に痛みが増えていったら、どうしたらいいのだろう、

 

その恐ろしさったらない、と思って瞬間。

生命は死を恐れるがゆえ、前者の過程はあながち間違いではない気がして、

その中での脳の反応として、痛みが増加継続する、決して慣れないというのは、

起こりうる、というか半ば想定される死の局面なのではないか。

そうしたら、今、生きていることの全てと、その死のとてつもない恐ろしさを、

比較した場合、

もう、ただ震えるしか、気が狂うしか無いんじゃないか、

という気がしたという夕方。

 

 

 

今は、冷静に思うけど、そうかも知れんな、地獄におちるな、

とも思うけど、なんとか、疲れながらも生きてます。

リズムセクション

ちょっと前にカホンを作って、ミニカホンも作って、

叩けないことに嫌気がさして、

いかんせん左手の問題なのか、ダブルストロークの問題なのか、

根本的にリズム感の問題なのか、よくわかんないけど、

左手4分、右手スネアのリズムをひたすら通勤電車で刻んでたらちょっとましな感じになってきたような、そうでもないような。

 

適当に叩くと、なんか祭り囃子みたいになってださい。

 

カホンカホンでやるとして、

ペルーの楽器なんだな、とか思って、民族楽器に足を踏みいれたら、東欧アジアやアフリカンリズムのかっこいいこと、かっこいいこと。

作れないけど、つくれないからダラブッカ欲しい。

 

民族音楽というキーワードだけで、

ツターヤワールドコーナーで借りまくった結果、

東欧、アフリカに加えて、インドや、ウイグル、ハワイアン、ジプシージャズやら、興奮しすぎる。

 

次はディジリディドゥ、かまたは、サンドラムのタンドラム、を自作。

演奏技術が追っ付かないから、ださいんだなー。

twitterがきらい

140文字制限に便乗して、短文賢いというかんじ。

 

しょうもないことをだらだら書く必要はないけど、

そうでないことをきちんとした文量で書くのは、ふつうのことなので、

例えばblogosで8ページあるからって、「長い!」という批判はナンセンスだと思う。

 

3行でまとめよ、というけれども、

よく思うけど、”ノルウェイの森”を3行でまとめることはできない。

小説家は、1文字で欠けていたらその小説は違うものとなる、というくらいに文字=言葉に重きを置いているだろうし、

同様に、どこで区切ってもその小説をなし得るという覚悟(保坂和志)で言葉を書いている。ということを知れ。

 

他方、(誰か忘れてしまったけど)詩人が、なにかの物事を表すのに、それそのものを示すのに最適な語が一つだけある、と言っていたというのを読んだことがあって、

それは今更ながら、ウィトゲンシュタインの言う”意味”への挑戦なんだろうと思う。

それは(まっとうな)小説家の責務と考えていいのだと思う。

だからつまり、ノルウェイの森の意味は、ノルウェイの森の文章を全て書くことでしか表すことができないのだろうと、いうこと。

別のいい方をすると、

「あなたを愛している」を「月がきれいですね」に言い換えることは文学ではなくて、

「あなたを愛している」を「月がきれいですね」に言い換えざるをえないことを書くのが文学であるということ。

だから、文学(というか芸術?)は言葉によって、言葉以上の本質を”だけ”扱っているということ。

世界は”言葉”から立ち上がるのか、はたまたウィトゲンシュタインの言う”意味”から立ち上がるのか、どうなんだ、ということそのものを

twitterの、というか信奉者の、短文主義は否定している、ように思えてならないので、

きらい。

Generative Music

Amazon CAPTCHA

を見て、ちょっとだけ立ち読みして、

これって音楽もいけるんじゃない?

って思った。

物理学と数学の理解がかなり必要だと思うけど。

 

とりあえずサイン波鳴らしてみるだけでもテンションあがるかもしれない。

ただし、バイナリ操作だからC/C++のほうがスマートかもしれん。

今更malloc!とかしたくないけど。

だからこそ?

Java的Generative Music F/Wを作ったら、つくれたら流行るかもしれん。

それってDAWの世界か。

VBAマクロ組めるCubase、みたいな。

アホくさいけど、興味深いかも。

 

そしてブラウザへ。

UX的には、次はサウンドってのもありでしょう。

というのは、思うんだけど、技術と気合いが足りてない。

吹奏楽

ラッパが、異常にプリミティブで不完全な(逆にある意味完全な)、楽器であることにびびる。

エレキギターとかで、弦の振動はどうあれ、回路に電気を注入してこねくり回してコーンを震えさせてアウトプットしていく仕組みに慣れちゃっていたり、

EDM的なDTM的なものと仲良くしちゃっていると、空気の振動がサウンドだということを忘れる。

ドラムの叩き方とか、喉の鳴らし方とか、すぐ隣でプリミティブな行為が行われているというのにも関わらず。

 

という訳で、電子楽器を基準としたときの、ラッパの異常性とは、唇の振動だけが純粋に音源、発音体であって、ぐるぐるまきの金管本体は増幅装置、共鳴装置でしかないということ。

ぐるぐるまきの長さによって音程が決定するので、そこんとこは楽器本体の力だけど。

エレキギター的にいうと、

弦とピックアップと木製の本体は口と唇と顔の形(アンプシュア)であって、管はシールドとアンプに相当するわけ(ただし管長は弦長にマップする部分もあるが)。

なので、

歌>ラッパ>>>>>エレキギター>シンセ>>>>>DTM

みたいなプリミティブ性をもっている。

 

という訳で、歌に憧れるギター弾きはラッパを吹くといい、という話。

結構吹いてもまったくものになりそうにない感じが笑える。

 

===

 

篠笛を借りる機会があり、ブクオフでナゾの横笛が300円で売られまくっているのを買いまくり、

ビール瓶をぼーっとならすのと訳同じなんかい、と思って、yamaha fifeを買ってみた。

探しまくった結果一番強力な動画が以下。同じ楽器とは思えん。同じ楽器じゃない?

www.youtube.com

 

これは管(と空気)が発音体。

鳴らん、がようやく自然に鳴るようにはなった。空気の漏れる音ばっかだけど。

運指が見えないのですよ。

がんばったあとにリコーダー吹くと、どこにがんばる必要があったのか、と思う。

 

===

 

そんでここまできたらサクソフォンまたはクラリネットなのだろうけど、

かける金も金をかける度胸もないので、当然NUVOすらも。

xaphoonを見つけて、いけるか、と思ったりしつつ、メルカリで5000円きったり1800円を買いのがしたりしつつ、

作ってみた、banboo sax。

 

これも強力な参考動画。画質悪いけど、xaphoonをなめてるとやられる。

www.youtube.com

 

 

作ったやつもクラくさいけど音はすごくよくて、音程はかなりメタメタで、

これはシタールライクなんだというふうにとてつもない言い訳を思いながら、それなりの運指を探しながら吹いている。音程弱いのに。

そうやって、リード楽器も、リード=ギター、管=アンプの関係なので、

なんでまたこんなに原始的でフィジカルなんだね、と思ったあたりで、

そもそもの問題提起の裏返しに気づいたわけでした。

 

音楽とは、jazzからhiphopからEDMまで、そうしてみると、短距離走と現代ダンスとストツーくらい違うような気がするのに、

バロック絵画と鳥獣戯画とアニメみたいなもんか。

 

 

あとはダブルリード!? は、やめておくとおもう。

興味はあるが。。

number girlのこと

特段、熱心なリスナーではなかったとしても、

2001年から2005年度に大学の軽音楽サークルに所属して、オルタナティブなコピーバンドをしていると、ナンバーガールというのは、どうしたって避けては通れない。

 

まず、思うに、今のちょっとひねくれたロックアンドポップアンドロックな、例えばゲスやカナブーンみたいなサウンドの基礎を作ったのはナンバーガール=向井だと思う。

そしてかつ、そのサウンドの傾向を、どうしても中尾が好きだったとは思えなく、そして吉村や吉野やゲンドウがよしとしていたとは思えない。

それでも、その、ナンバーガールのポップ性と、上記よしとしないはずのメンツがよしとするエモ的なものらが同居している不自然さこそがナンバーガールであることを否定できないというのは、田淵久子=ブッチャーズや、中尾=スパイラルコードSloth Love ChunksでありCrypt City であるという姿なのだろう。

 

つまり、何がいいたいのかというと、

パンクやロックはけしてイロモノではなく、

グラムや一部の先鋭にイロモノなものが現れるが、

じゃがたらのようにイロモノを除去することによって純粋なパンクやファンクが現れるように、

衝動とファッションの分別は明確なのである。

良しと悪しではなく。

そういう意味で、ナンバーガールにはイロが、その音楽や詩にも確実にあるし、それと同じものが、今のロックアンドポップアンドロックにも含まれている。し、それこそが向井の功績かつ功罪なのではないかと思う。

 

じゃあ、omoide in my headや、tatooありや、I do'nt knowにそのイロがなければよいかというと、それはない。

確かに、中尾のベースにそのイロはない。どこまでもヘビーでエモーショナルなパンクスの鋭いベースラインである。それがよさと思う。

田淵久子のギターがフレーズはどうあれどす黒いノイズを響かせて、それは、その良さはナンバーガールの功罪や功績の中にはなくて、ライクソニックユースやもっとモッズなパンクの中にあると思える。

それと向井のイロのバランスなのだと思う。

 

ブッチャーズのライブを見に行くときに、スリーピースを見たかったなと思っていたことがある。

そう思いながらライブをみて、田淵久子のギターにぶっ飛ばされたことがある。

スパイラルコードの初東京ライブに、中尾が現れたのに震えたことは忘れられない。

それがナンバーガールなのだ。

 

アヒトはどこへ行った。

この流れでいうと、ボラ、ではなく、BEYONDSなのだし、向井とともにzazenだということなのだけど、

同じく、それがナンバーガールなのである。

 

全員生きているくせに、音楽の先端に全員がいるくせに、

だからこそ? 再結成が考えにくいバンドである。

希有、でしょう。

衝動とファッションの共存。

殿堂入り

CDを聞いていると、どこをどこから切り取ってもよい、好きだ、ではなく、よい、と思うものに出会うときがある。

そういうあらゆる断面がよい、と思うCDを自分の殿堂入りにする。

 

名盤鍋、というのをやったことがある。

自分の人生の名盤2枚を持ち寄り、聞きながら鍋をつつくという企画。

横浜FAD界隈のバンドマン達がこれは、と思う名盤2枚、2枚がミソだけど、その2枚を凝って持ち寄る。

ベタもいい。ベタもわかる。マイナーな出会いもいい。クソほどガチだからみんな伝わる。

面白かったねえ。

1ルームの部屋、総立ちでyoutubeのエアジャムのブッチャーズ7月をみたりとか。

阿呆どもが阿呆どもの為に音楽を馬鹿になってやっている姿。

 

そういう自分の胸の内の神棚に置きたいアルバムを探して、

音楽の地平を進んでいるような気がする。